幻住庵記 3.天地自然

【芭蕉自筆影印】
 さす可に春能名残も遠可らす つゝし咲のこり 山藤松尓可ゝ里て 保と支須志ハゝゝ過る本登 宿可し鳥(かけす)能便りさへある越 木つゝき乃つゝ具ともいと者しなんと(なと) そゝろ尓興してハ 魂呉楚東南尓走 身盤湘瀟(ショウショウ)洞庭尓立 山盤未甲(西南)にそハ多ち 人家能本とに 遍多ゝり 南薫(ナンクン)峯より於路し 北風海をひ多して涼し 日枝の山(比叡山) ひら(比良)乃高根より 辛崎能松盤霞こ免て 城あり 橋有 釣たるゝふ年あり 笠とり(笠取山)尓かよふ木樵(キコリ)能聲 麓能小田尓早苗とるう多 本多る飛可ふ夕闇能空尓水鶏(クイナ)能多ゝ具音 美景 物として多らす登いふ事奈し 中尓も三上山盤士(富士)峯乃おも可具尓可よひて 武蔵野ゝ婦るきすミ可(深川芭蕉庵)もおもひいてら禮 田上(タナカミ)山尓古人を可そふ さゝほ可嶽 千丈可峯 袴こしといふ山あり 黒津の里盤いとくろう茂里て 網代守(アジロモル)尓そとよみ遣舞萬葉集能す可多なり介梨 猶眺望くまな可らんと 後の峯尓者ひの本里 松能棚作り 王ら能圓坐を敷て 猿能腰掛と名付 彼海棠(カイドウ)尓巣をいとなミ 主簿峯尓庵をむすふる 王翁除(徐)佺可徒尓あら須 唯睡癖(?)山民とな川て 孱顔(センガン)尓足越投出し 空山尓虱を捫(ヒネツ)て座ス 堂万ゝゝ心まめなる時ハ 谷能清水越汲てミつ可ら炊(カシグ) と具ゝゝ能雫を侘て 一炉能備へいと可ろし 者多無可し 住遣舞人能 こと尓心高く住なし侍りて 多くみ置る物ずきも那し 持佛一間越隔て 夜る物納へ支處なと いさゝ可志川らへり

(さすがに春の名残も遠からず、つゝじ咲のこり、山藤松にかゝりて、ほとゝぎすしばゝゝ過るほど、宿かし鳥(かけす)の便りさへあるを、木つゝきのつゝくともいとはじなんど(など)、そゞろに興じては、魂呉楚東南に走、身は湘瀟(ショウショウ)洞庭に立。山は未甲(西南)にそばだち、人家能ほどに、へだゝり、南薫(ナンクン)峯よりおろし、北風海をひたして涼し。日枝の山(比叡山)、ひら(比良)の高根より、辛崎の松は霞こめて、城あり、橋有、釣たるゝふねあり。笠とり(笠取山)にかよふ木樵(キコリ)の聲、麓の小田に早苗とるうた、ほたる飛かふ夕闇の空に水鶏(クイナ)のたゝく音、美景、物としてたらずといふ事なし。中にも三上山は士(富士)峯のおもかげにかよひて、武蔵野ゝふるきすみか(深川芭蕉庵)もおもひいでられ、田上(タナカミ)山に古人をかぞふ。さゝほが嶽、千丈が峯、袴ごしといふ山あり、黒津の里はいとくろう茂りて、網代守(アジロモル)にぞとよみけむ萬葉集のすがたなりけり。猶眺望くまなからんと、後の峯にはひのぼり、松の棚作り、わらの圓坐を敷て、猿の腰掛と名付。彼海棠(カイドウ)に巣をいとなみ、主簿峯に庵をむすぶる、王翁除(徐)佺が徒にあらず。唯睡癖(?)山民となつて、孱顔(センガン)に足を投出し、空山に虱を捫(ヒネツ)て座す。たまゝゝ心まめなる時は、谷の清水を汲てみづから炊(カシグ)。とくゝゝの雫を侘て、一炉の備へいとかろし。はたむかし、住けむ人の、ことに心高く住なし侍りて、たくみ置る物ずきもなし。持佛一間を隔て、夜る物納べき處など、いさゝかしつらへり。 )